年末に勉強しようと、稲盛和夫さんの「生き方~人間として一番大切なこと~」を読みました。
■人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
つまり、人生や仕事の成果は、これら三つの要素“掛け算”によって得られるものであり、けっして“足し算”ではないのです。
まず、能力とは才能や知能といいかえてもよいのですが、多分に先天的な資質を意味します。健康、運動神経などもこれにあたるでしょう。また熱意とは、事をなそうとする情熱や努力する心のことで、これは自分の意志でコントロールできる後天的な要素。どちらも0点から100点まで点数がつけられます。
掛け算ですから、能力があっても熱意に乏しければ、いい結果は出ません。逆に能力がなくても、そのことを自覚して、人生や仕事に燃えるような情熱であたれば、先手的な能力に恵まれた人よりはるかにいい結果を得られます。
そして最初の「考え方」。三つの要素のなかではもっとも大事なもので、この考え方次第で人生は決まってしまうといっても過言ではありません。考え方という言葉は漠然としていますが、いわば心のあり方や生きる姿勢、これまで記してきた哲学、理念や思想なども含みます。
■強く思う
人生は心に描いたとおりになる、強く思ったことが現象となって現れてくる――まずはこの「宇宙の法則」をしっかり心に刻みつけてほしいのです。人によっては、このような話をオカルトの類いと断じて受け入れないかもしれません。しかし、これは私がこれまでの人生で数々の体験から確信するに至った絶対法則なのです。
すなわち、よい思いを描く人には良い人生が開けてくる。悪い思いをもっていれば人生はうまくいかなくなる。そのような法則がこの宇宙には働いているのです。思ったことが、すぐに結果に出るわけでもないので、分かりづらいかもしれませんが、20年や30年といった長いスパンで見ていくと、たいていの人の人生は、その人自身が思い描いたとおりになっているものです。
ですから、まずは純粋できれいな心を持つことが、人間としての生き方を考えるうえで、大前提になります。すなわち、良い心、――とくに「世のため、人のため」という思い――、宇宙が本来もっている「意思」であると考えられるからです。
宇宙には、すべてをよくしていこう、進化発展させていこうという力の流れが存在しています。それは、宇宙の意志と言ってもよいものです。この宇宙の意志が生み出す流れにうまく乗れれば、人生に成功と繁栄をもたらすことができる。この流れから外れてしまうと没落と衰退が待っているのです。
ですから、すべてに対して「よかれかし」という利他の心、愛の心を持ち、努力を重ねていけば、宇宙の流れに乗って、すばらしい人生を送ることができる。それに対して、人を恨んだり憎んだり、自分だけ得をしようといった私利私欲の心をもつと、人生はどんどん悪くなっていくのです。
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願望を成就につなげるためには、並みに思ったのではダメです。「すさまじく思う」ことが大切。漠然と「そうできればいいな」と思う生半可なレベルではなく、強烈な願望として、寝ても覚めても四六時中そのことを思い続け、考え抜く。頭のてっぺんからつま先まで全身をその思いでいっぱいにして、切れば血の代わりに「思い」が流れる。それほどまでひたむきに、強く一筋に思うこと。そのことが、物事を成就させる原動力となるのです。
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不可能を可能に変えるには、まず「狂」がつくほど強く思い、実現を信じて前向きに努力を重ねていくこと。それが人生においても、経営においても目標を達成させる唯一の方法なのです。
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人生において何かをなそうとするときにも、つねに理想形をめざしてやるべきで、そのためのプロセスとして「見えるまで考え抜く」、つまり思いの強さを持続することが必要になってくるのです。
あえて合格ラインを高く設定し、思いと実現がぴったりと重なり合うまで、いま一歩突き詰めて取り組んでみる。そうすることによって、結果として満足のいく素晴らしい成果を上げることができるのです。
またおもしろいことに、事前に明確に見ることができたものは、最終的にはかならず手の切れるような完成形として実現できるものです。反対に、事前にうまくイメージできないものは、出来上がっても「手の切れる」ものにはならない。これも私が人生の様々な局面で経験、体得してきた事実なのです。
■「自然性」の人になれ
物事をなすには、自ら燃えることができる「自然性」の人間でなくてはなりません。私は、このことを「自ら燃える」と表現しています。
❶火を近づけると燃え上がる可燃性のもの
❷火を近づけても燃えない不燃性
❸自分で勝手に燃え上がる自然性のもの
人間のタイプで同じで、周囲から何も言われなくても、自らカッカと燃え上がる人間がいる一方で、まわりからエネルギーを与えられても、ニヒルというかクールというか、さめきった態度を崩さず、少しも燃え上がらない不燃性の人間もいます。能力は持っているのに、熱意や情熱に乏しい人といってもいいでしょう。こういうタイプはせっかくの能力を活かせずに終わることが多いものです。
組織に見ても、不燃性の人間は好ましいものではありません。自分だけが氷みたいに冷たいだけならともかく、ときにその冷たさが周囲の熱まで奪ってしまうことがあるからです。ですから私は、よく部下に言ったものです。
「不燃性の人間は、会社にいてもらわなくてけっこうだ。キミたちは、自ら燃える自然性の人間であってほしい。少なくとも、燃えている人間が近づけば、いっしょに燃え上がってくれる可燃性の人間であってもらいたい――」
物事をなすのは、自ら燃え上がり、さらに、そのエネルギーを周囲にも分け与えられる人間なのです。けっして、他人から言われて仕事をする、命令を待って初めて動き出すという人ではありません。いわれる前に自分から率先してやりはじめ、周囲の人間の模範となる。そういう能動性や積極性に富んでいる人なのです。
■リーダーの選び方
現在の日本社会についていえば、リーダー個人の資質というよりも、リーダーの選び方それ自体に問題があると考えられます。というのも私たちは、組織のリーダーというものを、人格よりも才覚や能力を基準に選ぶことを繰り返してきたからです。人間性よりも能力、それも試験の結果でしか表せない学業を重視して、人材配置を行ってきたといってもいい。公務員試験の成績のいい人間が役所の要職やエリートコースに就くことなどは、その代表的な例といえます。
そこには、戦後の日本を覆いつくしてきた経済成長至上主義が背景にあるのでしょう。人格というあいまいなものより、才覚という、成果に直結しやすい要素を重視して、自分たちのリーダーを選ぶ傾向が強かったです。
たとえば選挙にしても、地元への利益誘導型の政治家を「おらが先生」として選出する風潮がまだまだ強く、いってみれば、才あれども徳に乏しき人間を自分たちの長としていただきたがる。そんな傾向やメンタリティを、私たちはなかなか払拭できずにいます。
かつての日本人は、もう少し、遠回りだけれども「大きなものの考え方」をしていたものです。わが敬愛する西郷隆盛も、「徳高き者には高い位を、功績多き者には報奨を」と述べています。
つまり功績にはお金で報いればいい、人格の高潔なものこそ高い地位に据えよといっているのです。百年以上も前の言ですが少しも古びていない、今日にも十分通用する普遍的な考え方といえます。
道徳の崩壊、モラルの喪失がいわれる昨今こそ、こうした言葉の意味を肝に銘じるべきでしょう。人の上に立つ者には才覚よりも人格が問われるのです。人並はずれた才覚の持ち主であればあるほど、その才におぼれるよう、つまり、余人にはない力が誤った方向へ使われないようコントロールするものが必要になる。
それが徳であり、人格なのです。徳というと、そこに復古的な響きを感じる人もいるかも知れませんが、人格の陶冶に古いも新しいもないはずです。
中国の明代の思想家、呂新吾は、人の上に立つ者はその人格、勇気、能力の三つの要素を兼ね備えていることが望ましいが、もしそこに序列をつけるなら、一が人格、二が勇気、三が能力であると述べているのです。
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